「ジャンゴ 繋がれざる者」のドクター・キング・シュルツって、完全にツェペリさんだよね。
なぜシュルツはジャンゴに対して優しいのか?
元々はブリトル三兄弟を捕えるための協力者として彼を救った。要するに役に立つからだ。
ところが彼は、奴隷制度を利用することに引け目を感じてしまったのだ。
劇中でも描かれる通り、彼は黒人に対する差別感情を持たないドイツ人である。アメリカの黒人差別物語におけるアウトサイダーだ。それどころか個人的心情として、黒人奴隷制度を嫌悪しているとさえ述べている。黒人ジャンゴを“買う”ことで協力させたシュルツだったが、これは彼の信条に反する行為だったのだ。
彼はとても気高い人間だ。それはプライドのために死を選択するほどに。
謎に満ちた好々爺、ドクター・キング・シュルツ
ドイツ人で元歯医者である以外に、彼のバックボーンは謎をたたえている。
冬の間、彼はジャンゴに仕事を融通し、才能を見出し、教養まで与えてくれた。ややもすれば「自由を与える責任」を超えた、親心にも近い感情を抱いたのかもしれない。
シュルツが与えた品位とインテリジェンスは、終盤、そこらの炭鉱労働者たちを凌駕するまでに成長していた。ジャンゴこそ、ドクター・シュルツの生き様であり、彼が生きた証なのである。
それゆえに、映画「ジャンゴ」は“自由になった黒人が意趣返しをするリベンジ映画”以上の魅力を秘めているのだ。
元はウィル・スミスを起用する予定だった
主人公のキャストに「誰?」と思った人も多いのではないだろうか?
レオナルド・ディカプリオやサミュエル・L・ジャクソンなど、名だたる名優を起用する一方で、主人公コンビは実力こそあれ華やかさでは一歩劣る。これには前述した“シュルツかっこよすぎ”問題が関係している。
タランティーノは当初、ウィル・スミスを起用する予定だったのだ。ところが脚本を読んだウィルは、シュルツのあまりの義侠っぷりに「俺は主人公じゃなきゃやらねえぜメーン」と断ったという。
「ジャンゴ 繋がれざる者」と言いながら、主人公がシュルツであることは明白だ。アクションとテーマ性ではジャンゴに花を持たせつつ、脚本上の魅力はほぼシュルツに搭載している。この現象は、コリン・ファースの話かと思ったら割とタロン・エガートンの話でおなじみな「キングスマン」と逆を行く構造をしている。
映画「ジャンゴ」は、正義の映画ではない
注意したい点として、映画「ジャンゴ」は奴隷制度を否定する“正義”の物語ではない。
タランティーノは、3年後の「ヘイトフル・エイト」でも黒人の賞金稼ぎ、ウォレス少佐を描いている。2つの作品に共通して、登場する黒人主人公はやり過ぎなくらい暴力的で、ズル賢い。
彼は黒人差別があったことを物語として固定し、主人公が法の元でおのれの自由を守っていく様を描いたのだ。だからこそ彼らは挑発を駆使し、人殺しをするにも自衛であることを強調している。この成り立ちを考えると「ヘイトフル・エイト」の主人公は、さらに力をつけたジャンゴの姿と見ることができる。
自らが掲げる善性に生きるドクターシュルツ。
自らを守る悪性を振りかざすウォレス少佐。
二人の主人公を見比べると、実に趣深い対比構造が浮かんでくるのではないだろうか。