映画『グリーンブック』ケネディ騒動は実話だったのか。60年代アメリカの人種問題

表題「グリーンブック」に込められる意味

「実際2回くらいしか出ないけど、グリーンブックあんま関係なくね?」

これが率直な印象だった。

映画の表題でもあるグリーンブックは、そもそも“レッドカード”のような視覚的ニュアンスからきたものではない。グリーンブックは1930年代から60年代まで、ニューヨークの黒人郵便局員ビクター・グリーンが発行していた書籍のことを指す。

『黒人旅行者のためのグリーンブック』には、~苛立ちのない休暇のために~との副題が添えられている。映画を見て感じる通り、当時の差別は苛立ちなんてものではない。南北戦争から100年を経て、差別を容認するジム・クロウ法が解かれてなお、黒人にとって安全な生活の指南書が必要だった。グリーンブックは実在の歴史であり、今日にもこの名前が表題に挙げられていることには大きな意味を持つ。

その様子は映画にも描かれているが、実際はさらに複雑で苦々しいものだったようだ。

ケネディ暗殺の2日前に起こったスピード違反事件

実はドクターシャーリーは逮捕されていない

ドン“ドクター”シャーリーがケネディに電話をかけ、一行の窮地を救ってもらったのは事実だった。ただし実際は、トニーが警官を殴ることもなければ、シャーリーが勾留された事実もないようだ。

ウェストヴァージニア州警は、40キロ制限の道を56キロで飛ばす一行にスピード違反を突きつけて拘束。黒人が白人をこき使う様子を面白く思わず、警官が120キロは出ていただろうと訴え、トニーだけを勾留した。黒人であるシャーリーは署に入ることさえ許されず、困り果てて当時の司法長官ロバート・ケネディの秘書へ電話をかけたという顛末だ

黒人絡みというだけで、事実が大きく歪められる。たとえ著名人であれ、これが彼らの置かれている環境だった。

この出来事は兄のジョン・F・ケネディが暗殺されるわずか2日前のことだったというから、当時のケネディ兄弟がいかにに重責を担っていたかは想像に難くない。どんな差別にも毅然とした態度を貫くシャーリーにとって、権力に頼った解決はどれほど悔しかったことだろうか。

シャーリーとケネディ兄弟との親交

本作の脚本はトニーの息子、ニック・ヴァレロンガによるもので、実話を元にしたストーリーで構成されている。そしてシャーリーが大統領のJFK、ロバート・ケネディ兄弟と懇意にしていたのも事実だ。

シャーリーはホワイトハウスでも何度かピアノを披露するプロだった。家族ぐるみの交流もあったようで、JFKの妻子が当時の様子や、映画では描かれていない事実を述べる場面も見られる。

JFKの訃報を聞いたのは、ピッツバーグ(ペンシルベニア州)にいる時だったそうだ。1963年、テレビで暗殺騒動を目にし、シャーリーは「なぜだ、神よ」と悲嘆したという 一行の窮地を救った弟ロバート・ケネディも、68年の大統領選の折に暗殺されてしまった。

弟ロバート・ケネディ暗殺のしらせに、当時の日本でも号外が飛んだ。

『グリーンブック』は脚本上、多くの脚色を含むことが指摘されている。シャーリー一行の旅が“北部では警官からも親切に接してもらえた”という構図で締め括られたのは、黒人を取り巻く環境がいかに不安定であるかを表している。

グリーンブックのその後を描いた一幕

本物のヴァレロンガ家が登場

作中では“嘘のような本当の話”も登場する。トニーの親戚を演じているのは、実際のヴァレロンガ家の人たちだ。

(C)2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC.

主演のビゴ・モーテンセン、ドロレス役のリンダ・カーデリーニと並ぶのがヴァレロンガ一家。右から3番目にはトニーの息子で脚本のニック・ヴァレロンガ、2番目のチョイ悪がもう一人の息子フランク・ヴァレロンガだ。両サイドはおじさん役のニコラ、アンソニーと見られる。

冒頭の野球観戦シーンでは見事なアンチニガーぶりを披露してくれたが、カメオ出演というにはキャラが良すぎる。この事実を知ってもう一度見ると、彼らの愛おしい演技が楽しめるだろう。

トニーリップは映画俳優としても活躍

ニック・ヴァレロンガは、イタリアンマフィア風の男オーギー役として出演

ニック・ヴァレロンガの出演シーンは、どこかイタリアンマフィアの雰囲気を帯びている。これも父トニーへのリスペクトを込めたオマージュだ。

トニーリップは63年にシャーリーの付き人を離れた後、コパカバーナの支配人をする傍らで俳優としても活躍した。『ゴッドファーザー』のゲスト役や『グッドフェローズ』の敵マフィアなど、マフィア映画の大作でもチョイ役を演じている。

作中では大きなメッセージ性は帯びていないシーンだが、こうした経緯を考えるとニックが作品に込めた想いの強さが感じられるだろう。

隔たりを乗り越えるためのクリエイティブ

『グリーンブック』を語る上で、美術や音楽、映像といったクリエイティブの貢献は計り知れない。

誤解を恐れずに言えば、本作が伝えんとするイシューは理想的であっても、イケてなければ伝わらなかった可能性が高い。

当事者や関係者でない人にとって、多様性の議論・違うもの同士の事情は「まぁそうだけど」でしかないのだ。場合によって、絵に描いた餅だと揶揄する人もいれば、理想を理想的に描く作品を“ファッション”だとくさす人もいるだろう。その点、「個人的な差別ではなく土地の風習だ」というレトリックも、ある種のクリエイティブと言えてしまう。

見目はイケてて、心は掴む。それがどれだけ難しいことか。

本作は、あるべきイシューを正しく伝える・届けることの教科書も言える作品だ。

『グリーンブック』は人種差別映画ではない

その上で本作は、ただの”人種差別反対映画”ではないことを認識しておいてほしい。

ドクターを端的に表すなら、黒人でありながら白人の晩餐会に臨み、類まれなピアノの腕を披露する教養人だ。住まいはカーネギーホールの最上階、しかもゲイ。彼は当時のあらゆるステレオタイプから外れた人なのだ。

何者にも相容れない自身の立場に、彼は「黒人でも白人でもなく、人間でもない私は何なんだ」と憤る。そんな男と白人のゴロツキとが旅に出て、少しずつお互いを理解し、生涯にわたる友となった。

ドクターシャーリーは本来ならグリーンブックなど必要のない人だ。にもかかわらず演奏旅行を敢行するということ。それは演奏会という彼自身のアイデンティティを貫くおこないなのだ。気高い黒人ピアニストと白人ゴロツキの二人が、友人のありのままの生き方を認めあう。この物語はそんなストーリーである。